空想ノート雑記

SS、ちょっとした設定、雑記など

ムーンウォーカー(仮)

 小説家になろうというサイトで携帯投稿のテストも兼ねて投稿したSS。詳しくは前の記事で。

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 照明が落ち、同時に背後の気密扉が閉まった。

 手袋の先に伝わる振動が余韻となり、やがてフェードアウトしていく。少し間を開け、気体充填率の低下を知らせるカウントダウンがヘルメット内部の通信機に届いた。

 アルは気密異常のアラームが鳴らないことを確かめ、そしてゆっくりと身体を座席に沈めていった。

 静寂。

 聞こえるのは自らの呼吸と鼓動、そして機械音声によるカウントダウンのみである。息を止め耳を澄ませば、背負ったボンベから吐き出される混合気体がチューブの口に当たる音も聞こえるだろう。つまらない雑音だが、それは文字通り命を繋ぐ音だった。

 努めて深く息を吸い、時間をかけて吐き出しても、心はざわついたままだ。期待と不安、そして喉を掴まれているような緊張。この仕事に配属されて早一年となるが、薄手の気密服越しに死と向き合う、ピリピリとした感覚はそう簡単に慣れるものでない。

『――アリステア。満月の夜は犯罪が増えるという迷信を知っているか?』

 通信機越しに唐突に語り出したのは運転席に座るシャーだ。その間にもカウントダウンは50パーセントを切り、アルの呼吸に合わせるかのように低下していく。

 唇を舐め、ぶっきらぼうに返事をする。声が少しかすれているのは緊張のせいではなく、生まれつきのものだ。

「知らねぇよ。だいたい、満月なんて産まれてこの方記録でしか見たことがない」

『宜乎むべなるかな! 無論、迷信に過ぎない話だ。素晴らしき連合も悪の帝国も失われた今では知る者も少ないだろう』

 低く豊かな、しかし合成音声特有の平坦さが残る声は芝居がかった口調で話し続ける。気障ったらしい言葉回しは若者に知恵を振りかざすこと以外に楽しみを見いだせない老人のようである。――最初の駆動から五十年以上経過するというのだから、人間であれば十分老人と言えるのだろうが。

『とは言うものの、頭ごなしに迷信と決めつけるのも尚早か。古来より信仰の対象であり、暦の運行にも関わった。身近でありながら神秘を内包する。その神秘が満ちた姿に、畏敬や恐怖を感じるのも納得の行くことだ』

 言葉を続けながら、シャーはローバーの電源を入れたらしい。モーターの鈍いうなりが体を震わせる。フロントガラスの下にあるコンパネに光が灯り、外部の情報が次々と液晶に羅列されていく。15パーセントを切ったカウントダウンを無言で聴いたのち、アルは頭を座席から持ち上げた。

「それと仕事と、一体何か関係があるってのか?」

『なに、無駄話ではないさ。お前が満月に出勤するのは、これが初めてだったな? 月面上においても、満月は人を狂わせるものだよ』

 カウントダウンがゼロに到達した。シャーの声を背景に、眼前の扉がゆっくりと開いていく。

 広がるのは荒涼とした大地だ。見渡すかぎり灰色をした砂の上に、点々と転がる巨岩の影が短く落ちている。空はインクのような粘りのある暗黒で、ごく薄い大気の向こうに光るはずの星々は地面の照り返しに邪魔されて見えない。

 このいきものの気配がない風景も、アルにとっては訪れるたびに新たな驚きを与えてくれる。地下に広がるコロニーの殺風景さは画一的でつまらないが、地上では同じものは一つとしてない。それが『発見』なのだ。人間に生み出され、管理される世界には存在しない言葉でもある。

 月に生きる誰よりも、アルは地上が好きだという自負があった。それがローバーから背中に繋げられた命綱ライフラインが切れてしまえば、まず間違いなく死に至る世界だとしてもだ。

 シャーがアクセルを踏み込むのに合わせ、ローバーはゆっくりと基地から発進する。

「今日も太陽電池の検査だったな」

『ああ。あとタモンからの言伝が入った。お偉方に嫌がらせをしたいから適当な大きさの石を拾ってこいとのことだ』

「現場に出てこないくせに何言ってんだあのオッさんは」

 ふとアルは視線を空にさまよわせる。いつもなら基地の右手側、北の空に見えるはずのものが見つからない。

『気づいたか?』

「……そうか、満月だもんな。確かにこれは気が狂いそうだ」

 地球。

 母なる青い星のことをアルは知らない。いくら造骨剤を打っていようが、月で生まれた子供は地球の強い重力に耐えられない。

 だが、その姿は安心を与えてくれた。未知の世界であり、帰ることの叶わない故郷であった。アルは地球も愛していた。恐らく、父の次くらいには。

「……見えないから不安になる、ってんなら分かるが、地球からは月が見えているんだよな? なんで犯罪が増えるんだ?」

『お前が地球に感じるものと、地球の人間が月に感じるものは違うのさ。それに満月の夜は明るいから色々と悪事を働きやすいという話だが……まあ、あくまで俗信だな』

「へえ。昔の人の考えはいまいち分からねえな」

 そんな無駄口を叩き合いながら、二人を載せたローバーは穏やかな速度で月の大地を進んで行った。